2013/04/24

[感想文]村上春樹「1Q84」


概要

長いです。とにかく長い。

村上春樹の長編は「蛍」という短編が「ノルウェイの森」の元になっていたり、「泥棒かささぎ」が「ねじまき鳥クロニクル」の元となっていたりするが、単純に短編が長編化されているというわけでもなく、たとえば第二作の「1973年のピンボール」で主人公の追憶にのみ登場する直子というキャラは、さらにディティールを与えられて「ノルウェイの森」のヒロインのひとりとして登場している。

1Q84はそのスタイルの総決算というか、これまでの全作品を注ぎ込んだような作品だった。読んでいて常に過去作の影のちらつく作品ではあるのだが、海辺のカフカやねじまき鳥クロニクルあたりの長編は一度しか読んでおらずかなり忘れているので、過去作どうこうはなるべく置いておいて、1Q84という作品単体について思ったことを書き記しておく。


感想文

主人公の一人、青豆はなかなか新しいキャラである。能動的に暴力を振るう主人公というのは、村上作品ではこれまでにいないキャラだったと思う。DV男を針で突いて殺すという必殺仕事人のような活動をしながら、日常でも1巻の中年男をナンパするシーンのように容赦ない言葉の暴力を縦横無尽に振るう鬼畜である。普通の男はあんなやり取りの後で絶対勃たないと思う。

青豆については執拗に彼女の肉体が描写される。彼女の仕事もスポーツジムのインストラクターという肉体と密接に結びついた仕事であり「肉体こそが人間にとっての神殿である」と書かれるとおり、青豆の物語は肉体の物語である。
青豆の心はほとんど死んでいると思う。彼女の生きる理由である天吾をあえて探さないと言うのは、もうこれは生きていても死んでいても同じである。ほぼ間違いなく一生再会することはないんだから。作中でも誰かに言われていた気がするけど。

もう一人の主人公、天吾はいつものいけ好かない村上キャラである。
いや嘘ごめん本当は好き。罪悪感なく不倫したり大麻やったりするクズ野郎だけど。
「小説家」という職業(まだ志望に過ぎないが)は、これが村上春樹作品の総決算ということを暗に示していると思う。。翻訳家とか雑誌のライターとか、初期三部作の主人公が回りくどく文章にまつわる仕事をしていたが、それは小説家の暗喩であったと思う。この設定を十分に活かして芥川賞とか文壇にいちいち悪意を込めた描写をしているところがまた面白いのだけど、それはまた別の話。

青豆の話を肉体の話、とすると天吾の物語は精神の物語である。
とこじつけられなくもない。多分そういう意図だと思う。父親と実際には血のつながりがなかったこととか、そういうことですよね。
離れていた精神と肉体がお互いを求めあう物語、という読み方もできる。

しかし天吾の物語は変な喋り方をするおっぱいの大きい美少女作家というわけわからん存在のふかえりが全部持っていってしまっていて、ふかえりと愉快な仲間達という印象しか残らない。
ふかえりの保護者である戎野先生とか娘のアザミはかなり重要そうなポジションにいながら、ストーリーでの登場がきわめて少ないのだが、そこを更に深く書くとますます天吾のキャラが薄くなってしまうからだと思う。
そういう配慮もあって後半で父親を見舞ってふかえりから離れるけど、はっきり言ってそのパートは非常に冗長だと感じるし、いきなり看護婦に進められて大麻とか吸い出して意味分からないです。あんまりにも安っぽい道具立てじゃないでしょうかね。

タイトルにもなっている1Q84というのは、まあ作中で違うって言ってるけどどう見てもパラレルワールドなわけで、この世界って一体何なんでしょうかね。
月が二つあって警官がベレッタを持ち、天吾と青豆が再会できる世界。
本来の1984年では警官はベレッタを持っておらず、ということは「さきがけ」と「あけぼの」の分裂も起こっていない?
だとすると深田保やふかえりは本来の1984年ではいったいどうなってるのだろうか。
読み込んでいくとそれなりに面白そうではあるけど、長すぎて再読する気が起こらない。
大体一回読んだくらいじゃほとんど全貌が見えない割に長すぎるんですよ。

読み手の立場から言えば、村上春樹の作風にはあまり重厚長大というスタイルが合わないような気がしている。
むしろ初期三部作とダンス・ダンス・ダンスのように、独立したいくつもの作品が緩やかにつながっているようなスタイルのほうが良いのではないかと思う。

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